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 川倉靖史

Author: 川倉靖史
イタリア公認添乗員です。
1995年よりミラノ在住。

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とうきび畑がざわわ。
スフォルツェスコ城の前にとうもろこし畑が出現しました。
広場には8月いっぱい展示され、その他にハーブ、ヒマワリ、カボチャ、ズッキーニなども栽培しています。

mais.png

エキスポ・ゲート広場の360平方メートルの敷地に1500本のとうもろこしを置き、それらは高さ2メートルにも及びます。もともとミラノ郊外で栽培されたものをこちらに持ってきました。栽培の様子は郊外に行かなければ見ることができないので、8月中、特にお子様たちに興味を持っていただければということです。

mais2.png

日本語では地方により様々な呼び名があり、トウキビまたはトーキビ、ナンバ、トウミギ、などと呼ぶ地域もあります。

1492年、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を発見した際、現地のカリブ人が栽培していたトウモロコシを持って帰ったことでヨーロッパに伝わりました。ほぼ即座に栽培が始まり、1500年にはセビリアにおいて栽培植物としての記録が残っています。

伝播は急速で、16世紀半ばには地中海沿岸一帯に広がり、16世紀末までにはイギリスや東ヨーロッパにも広がってヨーロッパ全土に栽培が拡大しました。

ヨーロッパにおいては当初は貧困層の食料として受け入れられ、それまでの穀物に比べて圧倒的に高い収穫率は「17世紀の危機」を迎えて増大していた人口圧力を緩和することになりました。また、大航海時代を迎えたヨーロッパ諸国の貿易船によってこの穀物は世界中にまたたくまに広がり、アフリカ大陸には16世紀に、アジアにも16世紀はじめに、そしてアジア東端の日本にも1579年に到達しています。

日本には1579年にポルトガル人から長崎または四国にフリント種が伝わり、本格的に栽培されるようになったのは、明治初期にアメリカから北海道にスイートコーン、デントコーンが導入されてからです。

mais1.png




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ミラノ万博記事 | 01:09:52 | トラックバック(0) | コメント(0)
トスティから読み取る心理学。
「私は死にたい」

Vorrei morir ne la stagion dell'anno,
私はこんな季節に死にたい
Quando è tiepida l'aria e il ciel sereno,
暖かい空気と澄んだ空のある時に
Quando le rondinelle il nido fanno,
ツバメが巣作りをする時に
Quando di nuovi fior s'orna il terreno;
新しい花が再び地上を彩る時に

Vorrei morir,vorrei morir quando tramonta il sole,
私は死にたい…私は死にたい…太陽が沈む時に
Quando sul prato dormon le viole
草原の上でスミレの花が眠る時に
Lieta farebbe a Dio l'alma ritorno
私の魂は喜び勇んで神のもとへと戻っていくだろう
A primavera e sul morir del giorno.
春の日の夕暮れ、一日が死んでいく時に

Vorrei morir,vorrei morir
私は死にたい…私は死にたい…
Lieta farebbe a Dio l'alma ritorno
私の魂は喜び勇んで神のもとへと戻っていくだろう
A primavera e sul morir del giorno.
春の日の夕暮れ、一日が死んでいく時に

Ma quando infuria il nembo e la tempesta,
しかし、黒い雲や嵐が荒れ狂い
Allor che l'aria si fa scura scura:
空が真っ暗になって
Quando ai rami un foglia più non resta,
枝の上に木の葉が一枚も残っていない時に
Allora di morire avrei paura.
私は死ぬことを怖れてしまうかもしれない

Vorrei morir,vorrei morir
私は死にたい…私は死にたい…

この歌詞を見る限り、これに曲をつけるとしたら絶望の淵に立たされた人をイメージし、かなり暗い曲に作曲するだろうと通常の人間は思うのですが、このトスティという男の世界観は衝撃です。



短調からのスタートは良いのですが、サビの部分でまるで手のひらを返したように脳天気なナポリのカンツォーネに豹変します。例えるなら、傷ついているんだろうと思ってわざわざ電話をかけたのに明るい声で電話に出てきたような、裏切られた感があります。

つまり、言葉というのはあくまでも表面的なもので、微妙な内面の心の動きは音楽の力を借りて外に出ていきます。まさに文字通り心の動きが「表に現れる」…表現するということです。

したがって、この歌の主人公は「死にたい」と言っていますが、実のところ「死んでもイイくらい幸せ」であるとトスティは考えたのでしょう。

サビの部分のクドいくらいの「リア充アピール」が、なんか…羨ましい。



未分類 | 04:57:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
さよなら、ベルゴンツィ。
「世紀のベルディ・テノール」ベルゴンツィ氏死去

イタリアのメディアによると、カルロ・ベルゴンツィさん(イタリアのテノール歌手)が25日、北部ミラノの病院で死去、90歳。死因は明らかにされていない。

北部パルマ県ビダレンツォ出身。ミラノのスカラ座でテノールのスター歌手として成功。ベルディの作品を数多く手掛け、「世紀のベルディ・テノール」と称賛され、日本でも数回公演した。(時事)




追悼の意を捧げ、彼の歌を聞いてみましょう。
この曲はトスティ作曲で、どちらかと言うとナポリ民謡に近い土着的な「ナポリ音階」を多用する作曲家でもありましたが、この「さようなら」は夏の終わりの切なさを表現した歌曲として有名です。

「Addio」さようなら

Cadon stanche le foglie al suol
まるで疲れた葉が地面に舞い落ち
bianche strisce serpon sull'onda
波の上には白い縞がうねっているようだ
lieve nebbia nell'aria fonda
深い大気には霧がかかり
sembran freddi i rai del sol
太陽の光さえ冷たく感じてしまう

Le rondinelle lasciano il nido
つばめたちは巣をあとにして
verso altro lido le trae desio
彼らは熱望に駆られて別の岸へと向かっていく

estate, addio! addio!
夏よ、さようなら、さようなら!
estate, addio! addio!
夏よ、さようなら!

Una voce lontan lontan,
はるか遠くから声が聞こえてくる
"Odi e impara" sembra gridare,
「お聞きなさい、そして学びなさい」と叫んでいるようだ
"Non diverso dall'oggi e il doman,
そして「今日も明日も変わることはない」
gioia e duolo, polve ed altare”
「喜びと悲しみ、塵も美しい祭壇もすべて同じ事」と

Ogni legame mortal si spezza,
この世のすべての絆は引き裂かれてしまうが
copre l'oblio fiele e dolcezza
「忘却」が苦悩も甘美も、すべてを包み込んでくれるだろう

O speme, addio! addio!
おお、希望よ、さようなら、さようなら!
O speme, addio! addio!
おお、希望よ、さようなら!

Perche' aspettar tuttor, oh! dolce amor?
どうして、まだ待っているの、おお、いとしい人よ?
Un sol bacio mi da', poscia ten va
一度だけ口付けして、はやく行ってしまいなさい
Un altro ancor, un altro ancor
もう一度だけ、せめてもう一度だけ
Pegno d'eterno fe' da te voglio
あなたの永遠の心の証が欲しい
perche' il tuo cor e' fatalmente mio
あなたの心は私のもの…それは「運命」なのだから

Per sempre addio! per sempre addio! addio!
永遠にさようなら、永遠にさようなら!さようなら!
Per sempre addio!
永遠にさようなら!



ご冥福をお祈りします。



未分類 | 01:28:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
伝説の歌手。
ポルタ・ロマーナ(ローマ門)の建設とほぼ同じ時代、1500年代の後半よりイタリア及びヨーロッパ全土にカストラートと呼ばれた歌手たちが音楽界を席巻していました。イタリアを中心に「教会音楽」から「オペラ」に進出し、1650年ごろから1750年ごろにかけてヨーロッパ各地でそのピークを迎えます。


(3分30秒から)彼らの歌声に失神者が続出。

カストラートは、近代以前のヨーロッパに普及した去勢された男性歌手です。男性を去勢することにより男性ホルモンの分泌を抑制し、男性の第二次性徴期に顕著な声帯の成長を人為的に妨げ、変声期をなくし、ボーイ・ソプラノ時の声質や音域をできうる限り持続させようとしたものです。

一方で成長ホルモンは分泌されるため、身長や胸郭は通常どおり成長し、胸郭をはじめとする骨格や肺活量の成長などは成人男性とほとんど変わらず、声のトーンや歌声の持続力は、現在では変声期前の未成年や女性歌手では再現できないといわれています。

彼らの声は甘く、野性的でそれでいてとても官能的だった、と。

教会内で女性は沈黙を保たなくてはならなかったため、歌を歌うことは許されませんでした。よって、女声パートは変声期前の男声で構成されていました。しかし、変声期を迎えるとどうしても声質が変わってしまった為、それを抑える目的で意図的に男子を去勢することが始まったとされます。
また教会内で行う演劇においても女性が参加することができず、少年では役柄の関係や声量が足りないことから、変声期前の声質を保った男性が必要とされていました。

実際には、変声期直前のボーイ・ソプラノの声質を有した少年が、偶発的な事故か病気のために睾丸を除去せざるをえない状態となり、変声期後の年齢になっても声質を保っていたことから、その後は意図的に行われるようになったという説が有力となっています。

そのピークには、毎年4,000人以上にも及ぶ7 - 11歳の男子が去勢されたとの記録が残っていて、次第にその候補は下層階級へと移ってゆき、全盛期のカストラートの収入は2 - 3ヶ月公演するだけで、その国の首相の年俸を超える収入を得る者も出てきたということから親がお金に目が眩み、特にイタリア南部では、その親が一旗挙げる目的で去勢手術をうけさせられる子供も多かったそうです。手術を受けたものの歌手としての素養のない者も多く、親の欲求のために無駄に去勢されてしまったといってもいいような男子も多かったと推測されています。

また、口減らし目的に利用され、当時の医療体制の未熟さや衛生環境などにより、去勢手術を受けた多くの男子の命が感染症などで失われたと推測されます。

現代でいう、男の子ならジャニーズへ、女の子ならAKBへみたいな感じでしょうかね。




未分類 | 02:54:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
ポルタ・ロマーナ通りの陥没。
昨夜の強い雨の影響でポルタ・ロマーナ通りに広さ3×6メートル、深さ12メートルの陥没ができてしまったそうです。
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この「シンクホール」とは突然地面が陥没し、地表に大きな円形の穴があく現象で、主に、地盤の侵食などにより地中の空洞化が進んだ結果引き起こされると考えられています。酸性雨などが地下に浸透すると、酸に溶けやすい性質の岩盤が溶かし流され、結果として地下に巨大な空洞ができ、ある程度、空洞が大きくなると地表を支えることができなくなって崩落します。

シンクホールが起きてしまう原因は、その土地の下層部分を構成している岩石の種類などに求めることができたり、あるいは地下水汲み上げのプロセスにおける人的活動などによっても発生しうるとのことです。



この通りのつきあたりに見えているのがポルタ・ロマーナ、「ローマ門」とでも訳しましょうか。

portaromana.png

ローマ門という名前では第3世代なんですが、最初のローマ門はミッソーリ広場、次は中世の城壁の一部、その後に1548年から1560年にかけてスペイン統治下時代にフェッランテ・ゴンザーガの命令で当時の町の周りに建設された、ミラノで第三番目に建設された城壁に開けられた10門の内の一つでした。
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1884年に都市計画が承認されてその他の門は取り壊されてしまったため、今日まで残っている唯一つの門です。1598年に、アウレリオ・トゥレッツィの設計に基づいて建造され、記念式典のために造られた初めての防衛システムの門であり、皇帝時代のローマのアーチから影響を受けています。

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未分類 | 01:52:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
第三のイタリア。
イタリアにおいては早期に王国領へと併合されたミラノ・ジェノヴァ・トリノを中心とする北部が重工業地域(北イタリア)として発展しているのに対し、南部(南イタリア)は一次産業を中心としているが故に生じている経済格差が問題となっています。

1960年代のバノーニ計画によってターラント製鉄所やアウトストラーダが建設されるなど、南部での重工業発展と社会基盤の整備が図られある程度の改善は見られましたが、根本的な解決に至ってはおらず、南部の失業率は北部の4倍とも言われています。

本来南部が収めるべき分の税金を負担する格好になっている北部では、不況に伴い南部に税金を吸い上げられているとの批判が強まり、北部同盟のような南北の分離を唱える勢力(こうした民族的問題でなく、経済的問題から分離を主張する政党は過去にあまり例は無い)を生み出しています。

terza.png

大企業のほとんどが北イタリアに集中しているため、「若者のすべて」のような「成功を夢見てミラノにやって来たイタリア南部の貧しい家族」というドラマが成立します。

しかし現在は「第三のイタリア」を参考にした新たな経済作りが進められています。

第三のイタリアは、イタリアにおいて中小企業や職人による伝統工芸が発達している各種都市や地域を指す概念。これらの都市や地域は、中世にさかのぼる伝統工業の歴史を持つことが多く、大資本による近代工業化が進んだイタリア北部の都市や、依然として農業に依存するイタリア南部の都市とは異なる産業構造・社会構造を強調するもので、ポスト・フォーディズムが論じられる中で着目されました。

「第三のイタリア」に該当する都市や地域には明確な定義はありませんが、イタリア中部地域のエミリア=ロマーニャ州周辺を指すことが多いといわれています。

イタリアの北部は早くから工業化を成し遂げ、ミラノ、ジェノヴァ、トリノの3都市によるいわゆる鉄の三角形を筆頭に工業都市が数多く立地している。逆に、南部は現在でもなお工業が満足に発達しておらず、農業に依存した都市が多く、所得の面でも北部の都市に劣っています。

イタリアには、こうした南北の都市とは違って大資本による近代工業や農業ではない「職人」による繊維、皮革、宝飾、家具、陶芸と言った伝統工業が発達した都市が数多く存在しました。その点から、職人による伝統工業が発達した各種の都市を北部や南部の都市と区別する為に第三のイタリアと呼ばれています。

近年では先端産業と伝統産業の融合をはかる動きも見られ、イタリア経済の新たな牽引役として注目を集めています。

第三のイタリアと称される地域や都市には以下のような特徴があります。
1)近代工業や農業とも違い、古くから職人による伝統工業が発達している。
2)地場産業が多い。
3)大規模資本を投入した産業ではなく、個人事業者が多い。
4)工場で生産されるような大量生産品ではない、手作り商品が多い。
5)職人の間のネットワークが極めて緊密であり、生産者の間の意思疎通が容易。
6)職人間のネットワークがあるゆえに市場の動向に極めて敏感。
7)市場の動向に対して鋭敏な対応が可能である。

1970年代初頭のオイルショックの際にも、これらの地域では他の地域や国と比較して大きな打撃を免れ、高い経済成長率を維持したことから、新たな産業形態や工業形態を模索していた先進国や工業化を急ぐ発展途上国からの注目を集めました。



未分類 | 01:43:48 | トラックバック(0) | コメント(0)
若者のすべて。
「若者のすべて」は、1960年製作・公開のイタリア・フランス合作映画です。主演は アラン・ドロン。

こっちの「若者のすべて」ではありません。ま、これも伝説のドラマですけど…。


「若者のすべて」はルキーノ・ヴィスコンティ監督の映画であり、彼はミラノのヴィスコンティ家、ミラノ大聖堂の建設を決めたジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの子孫で、大変良いお家柄でもあります。ヴェネツィア国際映画祭審査員特別賞受賞。全編モノクロ。成功を夢見てミラノにやって来たイタリア南部の貧しい家族と、都会での残酷な現実を叙情的に描いた作品で、原題は「ロッコと彼の兄弟たち」の意味です。

未亡人のロザリア・パロンディとその4人の息子たち(シモーネ、ロッコ、チーロ、ルーカ)が、イタリア南部のバジリカータ州から長男ヴィンチェンツォの住むミラノへやって来るところから始まります。

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映画の中で老舗洋菓子「Alemagna」の前を通過します。現在のアルマーニ・ホテル。

しかし駅に迎えに来るはずの長男の姿はなく、長男は恋人ジネッタとの婚約祝いのパーティの最中でした。息子たちとそこに乗り込んだロザリアはジネッタの母親と大喧嘩を繰り広げ、パーティをぶち壊してしまいます。

かつてプロボクサーを目指していたことがあったヴィンチェンツォに連れられてジムに行った次男シモーネは才能を認められ、ボクサーとして活躍するようになるが、練習に身が入らず娼婦のナディアと遊び暮らして堕落した生活を送るようになります。
三男ロッコ( アラン・ドロン)はクリーニング店で働いていたが、シモーネがナディアにプレゼントするために女店主のブローチを盗んだことから、クビになり、ロッコは徴兵のために街を去っていきます。
その後、長男ヴィンチェンツォはジネッタと結婚して独立、四男チーロは苦学の末、学校を卒業してアルファ・ロメオの技師になります。
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話を整理しますが、
長男ヴィンチェンツォ、結婚して独立。
次男シモーネ、多額の借金を抱え警察に追われ、恋人を殺害、逮捕。
三男ロッコ、プロボクサーとして活躍、借金を肩代わりしてタイトル戦に挑む。
四男チーロ、アルファ・ロメオの技師。
五男ルーカ、末っ子であり、シモーネを警察に通報したチーロを責める。

オチとしては四男チーロ曰く、都会での生活が善人だったシモーネを破滅させてしまい、ロッコの寛大さがそれに輪をかけてしまった、ということです。

都会の問題だけではないと思うけど…。



ミラノ大聖堂の屋上での撮影したシーンはとても有名ですが、冷静に考えると屋上に上がるまで階段を使ったりと、結構大変なんです。まるで犯人が犯行を自供するために、わざわざ海の見える岬まで移動するくらいおかしな話ですが、「絵」として捉えるとこのようなムーヴメントのある映像は間が持ちますね。

最後に彼女が「あなたを憎むわ!」と言って走り去っていきますが、そっちは出口じゃないんだよね…。お客様にもよく案内していますが、行き止まりなんです、そっちは。

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未分類 | 01:28:17 | トラックバック(0) | コメント(0)
アレンガリオ。
眺めの良いレストラン「ジャコモ」はドゥオーモ広場に面した合理主義建築の建物の中に入っています。「一生に一度は行ってみたいミュージアム・レストランTOP10」にランクインされました。
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ファシズム時代の野心的な壮大な傾倒を堂々と示している「アレンガリオ」は、1939‐42年に グリッフィーニ、マジストレッティ、ムツィオとポルタルッピという超一流建築家達によって建てられ、ディアツ広場を視野にいれた入り口を作ることでドゥオーモ広場の設計が完了しました。
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アレンガリオは「arringare」という言葉から来ており「演説する」という意。ムッソリーニがここでドゥオーモ広場に向かって演説するために作られた建物ですが、一度も演説台として使用したことはありませんでした。
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ヴィットリオ・エマヌエーレ二世アーケードの反対側に建てられている、この双子の建物は白大理石で覆われ、メタフィジークな雰囲気を持つ二列の半円アーチで 特徴づけられています。下部の長方形の入り口に刻まれた浅いリリーフはアルトゥーロ・マ ルティーニの作です。向かって右側の建物は、ドゥオーモ広場の南アーケードの最後の部分で、向かって左側の建物は巨大な階段に特徴があり、王宮の長袖のように延びていた建物を解体した跡に建てられました。

現在、アレンガリオには2010年より「1900年代美術館」が入っています。この美術館には、未来派からアルテ・ポーベラに至るまで、全20世紀に 制作された作品が展示されていて、建物入口から二階の美術館入場口に続く大きな螺旋階段が、地下鉄の出口から広場を望む展望テラスまでを長く結んでいます。

1800年後半にドゥオーモ広場の再開発プロジェクトがあり、ルーカ・ベルトラミという建築家の案で、アレンガリオのある場所に鐘楼をおいたらどうかという計画がありました。最終的に却下されましたけど。
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彼は当時、再開発のエキスパートでありスカラ座広場、スフォルツェスコ城など観光で訪れる場所には彼の手が加わっているモノが多々あります。



ミラノ歴史 | 08:26:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
トリエンナーレに眺めの良いレストランが出来るらしい。
ミラノ・トリエンナーレは、イタリアのミラノで開催される美術展覧会で、1923年にモンツァで装飾芸術のビエンナーレとして始まり、1930年からはトリエンナーレとなっています。ミラノに移ったのは1933年から。

Triennale_.jpg

この展示会場で来年の万博に備えてミラノの眺望も堪能できるレストランを建設予定だそうです。建設費用には一億円くらいかかるようですが、レストランは50席用意され一流シェフが最高の料理をご提供します。レストランの建設は3〜4ヶ月で出来上がり、すべての準備が整うのは来年の3月頃だそうです。

屋上に作られるレストランはセンピオーネ公園を一望でき、その向こうには再開発地区であるポルタ・ヌオーヴァの高層ビル群が見えるでしょう。

skyline_porta_nuova_flickr-2.jpg

ミラノにある眺めの良いレストランは他にもいくつかあります。

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アルマーニ・レストランからのミラノ大聖堂の景色。

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ドゥオーモ広場に面した「アレンガリオ」内のレストラン。

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デパート「ラ・リナシェンテ」の7階レストラン。



トラム・レストランなんていうのも楽しいかもしれませんね。




ミラノ万博記事 | 06:08:06 | トラックバック(0) | コメント(0)
ランボルギーニは車ではない。
ランボルギーニの本社工場から今、帰ってきたのですが、あれは「芸術作品」でした。

ミラノで毎年開催される靴の見本市にいくとイタリアの職人の手がけた靴は「芸術作品」に感じてしまうのですが、まさに文字通り「革が化ける」そのものです。
大理石が彫刻に化け、絵の具が絵画に化け、木がバイオリンに化けるのと同様、鉄の塊がランボルギーニに化けるのも職人のなせる技なのかもしれません。

工場内ではランボルギーニ・ウラカンの製造中で一切、荷物の持ち込みは禁じられ、完全に「手ぶら」な状態で入っていくようなセキュリティの厳しさでした。

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完成した車をストックしておく場所がないので、製造しているものはすでに買い手が決まっており、テストを終えた後に出荷されていきます。ちなみに一番の出荷先はアメリカ、続いて中国。
出荷前のテスト・コースもランボルギーニは所有していないので特別に本社前の公道でテストしているそうです。ウラカンの凄いところは時速100キロにたった3秒で達するそうです。

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私の子供の頃のスーパーカー消しゴムでは、ランボルギーニ・カウンタックが一番人気であり、いわゆるスーパーカーを代表する自動車、また同時にスーパーカーといえば同車を連想する人も多いといわれています。1971年に発表されたマルチェロ・ガンディーニによる近未来的なウェッジシェイプを体現したデザインは、文字通り世界中に驚きを与えました。

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スーパーカーブーム時には「最高速300km/h」という公称値が話題となりこれが人気の一端を担っていましたが、実際には当時のLP400の最高速は300km/hまで届いてはおらず、最終モデルである25thアニバーサリーでも295km/hに留まります。

1981年に公開された米20世紀フォックスと香港ゴールデン・ハーベストの合作によるカーアクション映画「キャノンボール」において、オープニングでネバダ州南部でパトカーとのカーチェイスが繰り広げられるシーンを最初に見た時は、幼心に衝撃を受けたことを覚えています。警察車両が追いつかず、まるでからかうようにパトカーを振りきっていく車がこの世に存在するのか、と。




また、博物館にはランボルギーニのパトカーも展示されていました。
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未分類 | 06:26:01 | トラックバック(0) | コメント(0)
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